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世界遺産の法隆寺(奈良県斑鳩町)で今月3~5日、聖徳太子(574~622年)1400年の遠忌(おんき)法要(御聖諱=ごしょうき=法要)が厳かに営まれた。
日本仏教の祖とされる太子だけに、僧侶や楽人らが参列して舞楽も奉納され、境内は華やか。マスク姿の参拝者らが手を合わせる姿に、いまなお篤い信仰を集めていることを実感させた。
聖徳太子といえばだれもが知る飛鳥時代の偉人だ。冠位十二階、遣隋使の派遣など、教科書で習ったその業績を覚えている人は多いだろう。
「聖徳太子は飛鳥時代のインテリ青年。理想に燃えた思想家だったのではと思います」という社寺担当、奈良支局の岩口利一記者。それを出発点とし今月から朝刊(大阪本社版)で「和をつなぐ 聖徳太子1400年」の連載が始まった。
さて、テーマは2つ。
知っているようで実はよく知らない、聖徳太子とはどんな人か。最近はさまざまな研究があり、その人物像に迫る。
そして、1400年もの間、皇族から宗教家、学者、庶民に至るまで「太子信仰」が受け継がれてきたのはなぜか。
コロナ禍で社会に不安が蔓延(まんえん)するなか、何か大切なものがそこにあるのではないかと考えたのである。
敬愛される理由
まずは、聖徳太子とはだれか。
最古の正史「日本書紀」によると、31代用明天皇の皇子で、名は厩戸(うまやと)。おばにあたる33代推古天皇の皇太子となり、摂政として政治に携わって冠位十二階や十七条憲法を制定した。さらに遣隋使を派遣し、仏法興隆にも尽くした。
今風にいえば、皇族で、政治家で、外交官で、思想家・宗教家だった-ということになるだろう。
その事績のなかで最もよく知られるのが「和を以(もっ)て貴しとなし、さからうことなきをむねとせよ」の第一条で始まる十七条憲法だ。古来、これは、人々が心おだやかに和合することを尊ぶ「和の精神」とされてきた。
背景を探ると、当時の日本では豪族たちが争い、権力者・蘇我馬子による32代崇峻(すしゅん)天皇の殺害といった大事件もあった。太子はまだ若く、おばの推古が即位して長い推古朝が始まる。
対外的には文化も軍事力もある大国の隋や、朝鮮半島の国々が控えていた。国内で争っている場合ではないという視野もあったかもしれない。遣隋使を派遣する一方で、朝鮮三国との友好に務めた推古朝の外交政策を「非常に工夫を凝らしたものだ」と、元外務事務次官の藪中三十二(やぶなか・みとじ)氏のように評価する人もいる(「日本の針路」から)。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、人と人のつながりが問われる。マスクをするかしないかで言い争いが起きたり、「自粛警察」が登場したりと、社会に寛容さが失われているようにみえる。「和」を大切にという教えは時代を超え、人の心に響くのではないだろうか。
ブームは繰り返す
一方で、注目したのが太子をめぐる謎だ。
たとえば、その実在自体を疑い後世の創造だったとする「架空説」から、皇太子や摂政ではなかったとする研究、政治は太子主導というよりは推古と馬子と3者による共同統治だったとする説…。とにかくその存在は謎に包まれている。
中には、愛馬の黒駒(黒毛の馬)に乗って富士山を飛翔(ひしょう)した、中国の名僧の生まれ変わりである、といった“伝説”もある。
確かなことは、天台宗を開いた最澄や、浄土真宗の開祖・親鸞らが太子を崇敬したことだ。親鸞は「和国の教主」とたたえ、その教えは今も受け継がれる。
「磯長墓(しながのはか)」として宮内庁が治定している聖徳太子廟(叡福寺北古墳)が大阪府太子町の叡福寺にある。こちらも5月11日まで大法会(だいほうえ)を催行中だ。
興味深いのは、延暦寺(天台宗)や知恩院(浄土宗)、浄土真宗の東本願寺、西本願寺などからも僧侶が来て連日、法会が行われること。日本の仏教界では、宗派を問わず太子を崇敬(すうけい)してきたのである。
実は100年前の大正10(1921)年にもあの渋沢栄一がかかわって1300年忌が大々的に行われた。さらに昔、鎌倉末期の700年忌にも人々は像や絵伝などを作り、さまざまに顕彰してきた歴史がある。
聖徳太子ブームは繰り返しやってくるのである。
筆者:山上直子(産経新聞論説委員)
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2021年4月15日産経ニュース【西論プラス】を転載しています